奥島元総長との思い出

奥島先生と筆者 入院される前の忘年会 飲み始めの写真より

 奥島先生は本年5月1日肺炎でご逝去されました。享年85歳でした。

 約2年にわたる闘病生活の末の大往生でした。入院してから半年が過ぎた頃私の携帯に奥島先生から「退院できた。君たちのホームカミングデーの日は何時に何処へ行けば良いか?」と電話がありました。私は嬉しい反面ご無理をさせてはいけないと気遣い、その旨を話した所「大丈夫だ。心配するな。」と仰ったので「それではお会い出来る事を楽しみにしております。」と申し上げました。そして電話を切りましたが、それが先生との最後の会話となってしまいました。その後再入院され1年半都合2年間の入院生活を余儀なくされる事になってしまいました。

 ご逝去された翌朝奥様からお電話を頂いた時は茫然自失状態となり、自室のソファからしばらくの間立ち上がる事が出来ませんでした。人一倍生命力の強い先生の事ですから、必ず退院されると信じて疑ってませんでした。私の中で確実に一つの時代が終わりました。

奥島先生と筆者 入院される前の忘年会 お開きの記念写真より

 思い起こせば奥島先生との出会いは私が大学3年21歳、先生は当時法学部専任講師29歳でした。先生は商法のゼミを開設して2年目の若手ですから簡単に学生が集まりません。しかし後年は人気ゼミとなり、入るのに試験が実施される程になったと聞いております。当時たまたま先生の学生時代のクラスメートに私の長兄がおり、その兄から奥島ゼミに入るように勧められました。その時に私は兄に全出席するから、その代わりに必ず「優」をくれるよう頼んだ所OKとの返事をもらえたので、結局3年~4年の2年間奥島ゼミでお世話になりました。学生時代勉強らしい勉強はしませんでしたが、奥島ゼミだけは真面目に取り組みました。次に4年になるとき先生から法学部の運動部員全員に奥島ゼミに入るよう命令されましたので、私の時同様に全出席すれば「優」を約束して欲しいとお願いした所快諾して頂きましたので、私を含めたの6 人の運動部員(庭球、柔道、空手、自転車、馬術、ウエイトリフティング)が入りました。彼らも同様授業に積極的に出席しましたが、我々運動部員が主に活躍したのは授業後の飲み会、夏の軽井沢追分合宿、卒業コンパ等お酒がらみでした。

 かようなゼミでしたから、一般学生達とも大いに交流し、各運動部の早慶戦にも先生を先頭に応援に来てもらいました。実は先生の狙いはここにあり一般学生と運動部の学生の交流を計り、まさに運動部員に文武両道を推し進めようとの意図がありました。その時の体験をもとに総長になられた時に早稲田スポーツ強化に取り組まれたと思います。

奥島先生と筆者 入院される前の忘年会 二次会のカラオケ

 その後法学部長となりましたので、お祝いの会を開いた所先生からラグビー蹴球部の部長をやりたいので橋渡しをしてくれと依頼されました。私は4年間のウエイトリフティング部を終えた後2年間ラグビー部に在籍しました。その時のラグビー部の監督が日比野弘(後のジャパン監督)さんでしたので引き合わせた所意気投合し、まもなくしてラグビー蹴球部の部長先生となりました。

 余談ではありますが、それぐらい密にお付き合いさせて頂いた事は奥島先生ご夫妻に私の結婚式の仲人をして頂いた事によるものです。奥島先生はパワフルで圧倒的な実行力のある方でした。それから数年がたった頃先生から今度は総長選に出ることにしたので、色々と協力するよう依頼されました。私もとうとう早稲田に奥島時代がやってくるのかとわくわくした事を昨日のように覚えてます。

 55歳で総長になり63歳までの8年間(1994年~2002年)数々の改革を成し遂げた事は異論無いと思います。大学の教授はややもすると事なかれ主義の方が多い中数少ない真の改革者であったと思います。早稲田は進取の精神を重んじる校風があります。これからも奥島先生のような学問を探求し、学生を愛し、スポーツを愛し、酒を愛し、早稲田の発展に寄与する人材が輩出する事を心より祈念いたします。

 それでは奥島孝康先生安らかにお休みください。  合掌

昭和49年(1974年)法学部卒  岩永 勉

奥島元総長との思い出” に対して1件のコメントがあります。

  1. 千葉武太郎 より:

    第14代総長奥島先生「お別れの会」は
    7月31日午前11時より、大隈講堂で行われるそうです。

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